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七沢城址

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 室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。関東公方〈かんとうくぼう〉足利成氏の近臣たちと関東官領山内〈かんとうかんれいやまのうち〉上杉憲忠〈のりただ〉の重臣たちとの間に争いが起こります。上杉方に攻められた成氏は、いったん江の島にのがれますが、七里が浜での合戦で上杉方は敗退し、憲忠は七沢〈ななさわ〉山に要害を構えました。

 成氏は、この年5月に事態の成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。これが「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。

 長享2年(1488)、山内〈やまのうち〉、扇谷〈おうぎやつ〉両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定〈あきさだ〉が、当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。

 扇谷上杉定正〈さだまさ〉は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城付近の南実蒔原〈みなみさねまきはら〉において、少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。これが実蒔原の合戦です。

 しかしこの時、定正側にも大きな痛手が生じたらしく、何らかの手落ちで七沢城が落城したかのような記述が、いくつかの文書に残っています。一説には、この時七沢城主であった七沢朝昌(定正の兄弟)が戦死したとも伝えられています。

 七沢城が最終的に放棄された時期について、はっきりしたことは分かっていません。おそらく、小田原北条氏がこの地域を制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。

 城の中心は、現在県立七沢老人リハビリテーション病院が建っている部分と思われますが、病院の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。もしかすると実蒔原の合戦の際に炎上したのかもしれません。

 七沢城は中世の山城であり、江戸時代の天守閣を備えた城とはかなり違ったものだと思われます。丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって、大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。

 この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名も残っています。

厚木市ホームページより
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/index.html